第195期 #1
目の前に大きな鹿が躍り出た。
かなりの時間荒れた山道を走ってきた私は、注意力が落ちていたのだろう。ブレーキペダルを踏むのが遅れてしまった。砂利で摩擦力の落ちた道。咄嗟に間に合わないと判断してハンドルを切った。車は止まることなく藪にはまり、フロントガラスは深緑の葉に覆われた。私の心臓は早鐘を打ち、ハンドルを握り締めた手はじっとりと湿っていた。気が急いていたのか、単調な道に感覚が麻痺していたのか。どちらにしても、このような山道で出して良い速度ではなかった。
私は震える手でバックギアを入れた。ともあれ、先ずは道に戻りたかった。後方を確認しつつ、慎重にアクセルを踏む。車は案外すんなり元の道へ戻った。ほっとして前を向く。あの大きな鹿の影は何処にも見当たらない。期待していた訳ではないが、あの立派な体躯と角。見事な鹿だった。
胸が支えて直ぐには走り出せそうにないので、シートベルトを外し、深く息を吐いた。先ほどまでは気がつかなかったけれど、外は少し暗くなってきたようだった。私は少し不安になり、カーナビをいじった。現在地を確認して安心する。あと一キロ程で大きな道に出られる。
完全に暗くなってしまう前にと、急いでシートベルトを締め直し、ギアをドライブへと戻した。サイドブレーキを下ろし、アクセルペダルを踏み込む。葉にまみれた車は快調に進み出した。ガタガタと揺れる車体に改めて道の悪さを感じ、これが国道かと顔をしかめる。揺れで体の収まりが悪くなり、少し腰を浮かした瞬間、何かに車ごと下から突き上げられた。シートベルトがロックし、私は人形のように揺さぶられた。車は横転し、またしても藪に受け止められた。
「くそったれ!」
そう叫んで、シートベルトを外す。昨晩見た洋画のようにドアを蹴り開けた私は、些か自分に酔っていたのかもしれない。原因を知ろうと急いで車から顔を出したが、時が止まったように動けなくなった。
道の真ん中に先の大鹿がいた。
大儀そうに軽く顎を上げ、真っ黒な瞳で微動だにせず私を見据える姿は、反論を許さない私の上司のように、やたら堂々としていた。
彼がこの場にいたらどうしただろう。
夢の中にいるような私とは裏腹に、大鹿は不自然な程リアルに、そこに生きていた。