第185期 #1
あるところに、とても怠惰な女がいた。
ひねもす南向きの陽当りのよいソファに座って、ぼんやりしていた。
夫は、甲斐甲斐しく女の世話をした。食事は、動かない女のカロリーを緻密に計算し、また咀嚼することを面倒がる女のために、流動食を中心に、スプーンで掬い、口の中まで入れてやった。なかなか嚥下しない女を励まし、根気強く待った。自らの食事は二の次だった。洗濯はもちろんのこと、女の着替えまで夫が手を貸した。季節や天候、女のその日の気分に合わせた夫のコーディネートだった。
女は確かに美しかったし、夫は人形のような女を愛していた。新婚のころ、夫は女の声が聞きたくて、しきりと話しかけた。すべてに反応の薄い女に、苛立つこともあったが、次第にソファから動かなくなった女の世話をするにつけ、夫は新しい喜びを見出した。女に「生」を見たのだ。静かな部屋に響く喉を震わせ嚥下する音、服を脱がした瞬間に立ち昇る女の体臭、左乳房の下に並ぶ二つの黒子が呼吸に揺れる様。女の髪を梳き、爪を整える作業は至福のときとなった。この美しい女の生を自分が独占しているのだ。
ある日、夫の父母が交通事故で亡くなったと知らせがあった。夫の実家は遠方で、飛行機を乗り継いでも一日かかる場所だった。夫は泣いた。泣いて女に訴えた。必ず、一週間で戻るから、許してくれ、と。夫は、急いで準備をした。女の好きなアップルジュースをいれた哺乳瓶を天井から吊るし、キャップをゆるめたペットボトルの水を足元に置いた。ソファの周囲に配置したテーブルに、レトルト食品や缶詰を積み、お粥を入れた保温ジャーを並べた。さらには自家製のフルーツヨーグルトを入れた瓶にストローを刺し、女の首からぶら下げた。相変わらず反応しない怠惰な女に、細々と夫不在時の注意点を聞かせ、後ろ髪を引かれながら出かけた。
夫は両親の葬儀を済ませると、一目散に女のいる家に戻ってきた。予定より短い五日後のことだった。女のいる部屋で見たものは、女の死体だった。ストローの刺さった瓶と天井から吊るされた哺乳瓶は空だったが、そのほかの飲食物を触った形跡がなかった。餓死。女はソファから動かなかったのだ。夫は後悔し泣いた。服を脱がし、身体を拭き、白装束に着替えさせようとしたが、死後硬直の始まった身体は、着替えにも難儀した。ああ、女は死んだのだ。女の死を実感すると、男の涙はぴたりと止まった。