第179期 #13
夏。線香。男は猫に導かれるようにして静まり返った家を後にした。
黄昏時の路地裏には黒い影が差し、行き交う人々の貌は逆光に翳っている。立ち並ぶ屋台の店先には皮を剥がれ腸を抜かれたネコがイタチやハクビシンと共に逆さに吊られている。猫は見向きもせず進み、男はそれに倣う。
刺すような西日が男を貫く。まばゆい黄橙色を目に焼き付かせ、激しい頭痛とともに男は視力を失った。猫はノドを鳴らして男を導く。男はおそるおそる手探りでそれに従う。
男の肌に夜の空気が触れるころ、男はある家の前にいた。手触りと雰囲気で自宅だと察した。
闇の中でなら会えるのだろうか、それなら目が潰れたことにも意味がある。男は寝床でそのようなことを考えたのだろう。だが目を潰せば会えると妄想しながら潰せもせず、じめじめと悩みながら布団に頭を突っ込んでいるうちに終えてしまうのが人生だ。
「大丈夫ですよ」
闇の中で急に響いたその声に男は驚き、潰れた目を凝らして辺りを見回した。
男は声に向かって這い寄っていく。闇の中で声のあるじは膨らんだり縮んだりしながら伸び上がって男の手に首筋を擦りつけた。
やがて夜明けを迎え、闇の中に橙が差し、それが滲むようにして男の視力は回復した。
夏。線香。椅子には掛けられたままの袢纏。
男はダンボールとダクトテープと暗幕で窓を目張りした。
その晩、LEDの光すらない闇の中でその声は現れた。まるで理解不能なそれは言葉だった。大丈夫ですよ、とも、愛してますよ、とも聞こえる響きをもっていた。それは妻のものであり、妹のものであり、かつて傷つけてきた女たちのものだった。
その晩を境に男の世界は変化した。椅子に掛けられたままの袢纏から、仕舞ったままの揃いの江戸切子から、置かれたままの冬物のブーツから、低い抽斗に畳まれたままの普段使いのタオルから、男を気遣う声が現れるようになった。
男は外に出る。日なたと日かげ、鳥のさえずりやどぶの中にさえも声は満たされている。行き交う人々の貌は靄がかかったように崩れゆらめき、店先には魚の干物が吊るされている。男は太陽に向かって歩く。
私が男の名を呼ぶ。男は自分に名があり、かつてそう呼ばれていたことを思い出す。だが振り返らずに彼は顔の崩れた住人とかつてネコだった魚に見送られ傾き始めた白く灼ける太陽に向かって歩き続け、やがて光に溶けて消えた。
こうして私と彼は永遠に分かたれた。