第176期 #11

フォーレ「エレジー」

カウンターの内側で働く河村さんは所作が美しかった。洗い物をふくためのタオルを毎回きちんとピンとのばし、ステンレスのキッチンには滴ひとつなかった。注文がたてこんで、たくさんのドリンクをつくっているときも、少しも慌てたそぶりを感じさせなかった。プロである。

投資スクールの事務員としての一日を終えた私は、河村さんに会いにこのワインバーへ日参している。年をとってきてわかることのひとつに、男が男に会いたくなるということがあって、それはセクシャルなことではなくて、ようは女が女にしかわからない話をしたくなるように、男は男にしか話せない空気というものがある。それで私は河村さんに会いにくるのかもしれなかった。もちろん、ときどきはキャバクラに足が向かってそこで求めることはまた別の領域になってくる。

河村さんとは毎日のように会うことになるわけで、話すといっても、ほんの一言か二言、私も日替わりのワインをグラスで一杯か二杯のんですぐに帰ってしまうので、そんなに話すことはないのだが、今日も河村さんがグラスを拭くタオルをきっちりピンとそろえ、複雑なオーダーをサクサクこなす仕事ぶりをぼんやりみていると、それが会話をしているような気分になって私はどういうわけか自分もがんばろう、一生懸命生きていこうと思うのだった。

その日はたまたま隣に若い女の子が座っていて、一昔前の私ならば、ぎゅぃいんと丹田が熱くなってくるようないい女なのだが、私はこの店には河村さんに会いに来ているわけで、だまって飲んでいる。

「本とか音楽とか好きですか。わたし、そういうの全然だめで。この年になって知りたいって思うんですけど、なにから読んだり聞いたりしたらいいかわかんなくて。同年代のはやりじゃなくて、なんか古いのがいいんです」

河村さん一押しのピノ・ノワールを飲んでいた私と彼女はワインの微酔もあって、いつのまにかこんな話をする展開になっていた。応えるのは私である。私はまたひと昔前なら丹田が熱くなったろうと思った。それはひと昔前、私も同じことを思っていたからだ。知りたい。いい本やいい音楽を知りたい。でも情報が多すぎるし、何が本物なのかわからなかった。

河村さんがフォーレの「エレジー」をかけた。私がこの曲を聴いたのはいつだったろう? 私は彼女の問いにこたえた。「古いの教えられるけど、新しいやつをおしえてよ」やや、キャバクラ的なノリになってしまった。



Copyright © 2017 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編