第15期 #25

夜空のむこうの黄金世界

 不意に強い風が吹いた。窓際に置いたコーヒーカップの、黒い液体が小さな波紋を立てる。僕はそれを両の手のひらに包み込み、生ぬるい液体を喉に流し込んだ。
「雪、降りそう?」
 洗いたてのベッドに腰掛け、持参した恋愛小説から目を離さずに彼女は問い掛けた。
「ううん。今日は降らないだろうね。明日には分からないけど」
「なんだ」
 つまらなさそうに答える。
「そういえばさ、どうしていつも月の模様が同じか知ってる?」
 彼女は本から顔を上げ、窓ガラスの外の闇を見つめながら言った。
「月の自転周期と公転周期が同じだからだろう?」
 僕が当然のように答えると、彼女はふんと鼻でせせら笑った。それから、これだから理屈っぽい人間は嫌だわというように首を振り、柔らかいベッドシーツをそっと指で撫でた。
「なんだい。他に答えようがないじゃないか」
「それはあなたが見えるものしか見ていないから。あれは模様なんかじゃないわ。外の世界そのものよ。誰も見ようとはしないけれど」
 心なしか彼女の鼻息が荒い。また悪い癖が始まったかと、僕は少々うんざりする思いだった。彼女は昔から想像力がありすぎるというか、妄想癖のようなものがあって、時折それが顔を出すものだから聞く方は堪ったものではない。それでもそんなことを話すときの彼女の表情はとびきりに素敵だ。
「なんだい、外の世界って」
「だからさっき言ったでしょ。月が外の世界そのものよ。ううん、外の世界の入り口であって、出口であって、鍵穴なのよ」
「分からないな」
「だから、月は大きな『穴』なのよ。地球と外の世界を繋ぐ、唯一の鍵穴。開いたり閉じたりしているけどね」
「考えてみたことない? 月は単なる穴で、私たちが月だと思って見ているものは、穴を通して見た外の世界なの。黄金色の、ただ黄金色の世界」
 外の世界。黄金色の世界。僕はそれを思い浮かべてみた。どこまでも続く黄金色の草原、黄金色の空。床と天井、右と左の区別もなく、果てしなく続いていく世界。一つの言葉で、全てが現されている世界。
「どう、素敵でしょ?」
 いつの間にか彼女は立ち上がり、僕の側に立っていた。
「なんて、単なる妄想だけどね」
 そういって肩まで伸ばした髪をばさっと掻き上げる。これも彼女の癖だ。彼女が妄想を終え、現実に戻る合図でもある。
「うん。とんだ妄想だ」
 僕は笑って答えた。
 でも、そんなときの彼女の表情はとびきり素敵だったりするのだ。



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