第144期 #7

緑の腕

 幼い頃から姉の腕が好きだった。ピアノを弾く時が特に美しい。開いたり閉じたりして鍵盤を叩く十本の指、手首から肘の柔らかな動きに私は見入った。姉の体が時に激しく時に繊細に、流れ、うねり、跳ねる。そうして生まれる音色に夢中になった。
 姉は今、病気で部屋から出ることができない。そう父に聞いた。時々思い出したようにピアノが鳴る。

 ある晩、私は父と言い争った。父は姉をいない扱いする癖に、私にはもっと外に出ろ、しっかりしろと言う。そのことを指摘すると父は悲しげに俯いた。まるで私が悪いみたいだった。
 逃げるように自分の部屋に戻り、ベッドに倒れこむ。隣の部屋に目をやる。姉の姿が、壁越しに透けて見えるような気がした。
 廊下を進む足音が聞こえる。父が姉の食事を運んでいるのだ。お盆を置いて引き返し、階段を下りていく。しばらくして、かちゃりとノブが回る音、かさかさ何かが擦れる音。
 体を起こして部屋を出る。隣のドアの隙間から、痩せ細った腕が伸びてお盆を掴んでいた。私に気づいたのか、ぱっと手を引っこめる。
 お姉ちゃん。
 閉じかけたドアを力ずくで押し開け、私は息を飲んだ。
 室内は床から天井まで緑で埋め尽くされていた。何本もの茎が絡み合い葉が茂って壁を作っている。
 目の前の床をずるずる這うものがある。腕だ。その先に姉の体はなく、代わりに長い蔦が繋がっていた。引っ張られるようにして茂みに吸い込まれる。
 私は叫んで緑の塊に掴みかかった。喚き散らし、手当たり次第に引きちぎって進む。何本もの茎をかき分けると、緑の間に人の肌が覗いた。腕が埋もれている。
 見つけた。返せ、お姉ちゃんの腕。
 手首を引っ張ると、腕は肘の辺りでぶつりと切れた。腕の断面にはびっしり根が張っており、隙間から血が滲み出した。気づけば私の掌は赤く濡れ、ちぎれた葉や茎からもどくどくと出血している。
 背後から、私と姉を呼ぶ声が聞こえた。父が真っ青な顔をして立っている。なんてことを、と呟いて私を抱え、姉の体内から引きずり出す。私は、床の上にどす黒い血溜りが広がっていくのを茫然と見ていた。

 朝だった。やけに頭が重い。おぼつかない足取りで洗面所へ向かう。顔を洗っていると、何かが掌をちくりと刺した。鏡を覗きこむ。目を見開いてひきつった私の顔、その頬には瑞々しい緑色の芽が生えていた。
 ぽーん、とピアノの音が響く。姉の部屋で、昨日見た腕が鍵盤を叩いている。



Copyright © 2014 Y.田中 崖 / 編集: 短編