第138期 #1

スマトラのトラ

「私は最初から反対だったのよ。でも、子供が出来る前だったのは不幸中の幸いかもね」
 荷ほどきが終わっていない、段ボールに囲まれた部屋で、母が先ほど電話口で言った言葉を反芻した。「君はいつだって、冷めていたじゃないか」という言葉同様、忘れられない言葉になりそうだ。

 土地勘を得るために、町を散歩をし、コンビニの場所などを記憶した。駅前の、旅行会社の店先に置いてあるチラシが目に留まった。

『スマトラ島』

 シーズンではないからか、安かった。
 家に戻り、結局使わないままだったパスポートを取り出し、また店に行った。申込者氏名欄は、パスポートの名前に合わせた。強制加入の旅行保険の、保険金受取人の名前を書き間違え、新しい用紙をもらった。そこには母の名前を書いた。


 ジャカルタ経由で、スマトラ島のメダンに到着した。空港の到着ロビーで、私の名前がローマ字で書かれた紙を両手で掲げている旅行ガイドと合流した。彼の持っている紙に書かれた私の名前は、パスポートに記載しているヘボン式じゃないけれど、それはそれで南国らしい大らかさを感じさせてくれた。「Ms.」と書かれているのも、素敵。

 私と同じ年くらいの年齢の男性が、大きな茶色の真新しいトランクを引っ張って、やって来た。ツアーは、私とこの男だけな様で、ガイドは私と彼のトランクを強引に取ると、「Let's go」と言った。私は、ガイドの後に着いて行き、ワゴンに乗った。

 彼は少し迷ってから、私と同じ前列に座った。私は、三人掛けの席の真ん中の空いたスペースにハンドバックを置いた。

 ワゴン車は、ひどく揺れた。牛乳をこの車に置いておけば、バターができそう。綺麗に舗装された道路でこれほど揺れることのできるワゴン車に乗れただけでも、来た甲斐があったと思った。

「すみません。さっきから彼は、何を話しているのですか。言葉なんて、現地に行けばなんとかなると思っていたのですが、どうにもならないですね」
 彼は、そう言って笑った。

「明日行く予定のグヌンレウセル国立公園について説明してくださってます。野生のスマトラトラは滅多に見れないそうです。どうしてもトラを見たいのなら、動物園に行った方がいいと」

「そうなのかぁ。野生の、見れるといいですね」

「ええ」

 スマトラトラが、私達の前に姿を現すという、予感めいたものを私は感じた。膝の上に移動させたハンドバックが、車の揺れで少し飛び跳ねた。



Copyright © 2014 池田 瑛 / 編集: 短編