第130期 #1
「そういうときって、言葉は出ないものなの」と彼女は言った。日曜の夜で、ぼくらは酔っていて、おまけに裸でベッドの中に居た。彼女はこの春福島からやって来た大学の後輩で、かの震災においては家を半壊にされてしまうなどの凄惨な状況を経験した過去を持つ。
「避難所のトイレではレイプが相次いだわ」とも言った。ぼくはゲームをしていて、彼女はぼくの胸の上で独り言を続けている。二人とも酔っているのだ。彼女はチャーミングな鼻をしていた。ぼくはゲームをポーズ画面にするとその鼻を指で撫でた。それからこの鼻は一体どれくらいの男によって触れられたのだろうかと夢想した。脇腹には彼女の小さな胸があたっているが、それよりもぼくはこの鼻が気になる。
「言葉は出ないのではなくて、奪われたんだ」とぼくは言った。「失われた言葉を救い出す必要がある。そうしてそれにはお前の鼻が必要なんだ」
「お前って呼ばないで、怖いから」彼女は言った。
翌朝目覚めると彼女は居なかった。寝坊に気付き、ぼくは急いでシャワーを浴びて髭を剃った。顎を、鼻の下を、頬を。風呂場の鏡はシャワーの湯けむりでぼんやり曇っている。昨夜の彼女を思い出した。勿体ないことをしたなあと思った。彼女の鼻を少しでも長く見ていたかったし、触れていたかった。思い出すだけでぞくぞくと震えたし、今度もし機会があれば鼻だけでもおいていってもらおうと思った。丹念に髭を剃り終えると干したままのTシャツをそのまま被って、そこでテーブルの上に野口英世を三人見つけた。傍にはメモが置いてあった。「くそったれ、酒代」と、青色のペンで殴り書きがしてある。ぼくは笑ってしまった。なんだって野口なのだ、彼には立派な口髭が張り付いている。
ふと思えば、ぼくは彼女の鼻のことを思い出すことはできるが、それ以外については点で覚えていない。不思議なことだ。体のことはおろか、顔さえぼんやりとも記憶には残っていなかった。或いはそれは相対的なものかもしれなかった。鼻の魅力が過ぎたのだ。失われた記憶を取り戻さねばならない。そのためには何が必要か?確かに、そのためには強烈な災厄が必要なのだ!人は忘れるのだから、ぼくには災厄が必要だったし、彼女には彼女の鼻が必要だった。
「おい、災厄が必要なんだ!」と英世たちに叫んだ。彼らは微かな笑みを浮かべているが、そこには何もない。ぼくはくそったれと呟いて、彼女に電話をかけようと思った。