第111期 #10

紙魚

 夜の校舎を行く。今日も巡回だ。僕はいつもと同じコースを順々に回っていく。最初は、理科室、次に家庭科室、どんどんと教室を回り、体育館を経由し、最後にいつものように図書室の前に立つ。今日も彼女は待っているだろう。一応、礼儀としてドアをノックしてから、僕は中へと入る。
 窓際の席に、彼女はいつものように座っている。何をするでもなく、ぼんやりと窓の外を眺めている。窓から差し込む月明かりが、彼女の顔を照らし、彼女の白い肌をより一層映えさせる。机の上には、楕円形の缶がこれもいつものように置かれ、それがとても大切なものであることを示すかのように、綺麗な赤いリボンが巻かれている。
「やぁ」
「こんばんは」
 彼女は僕の方を向いてニコリと笑う。
「今日も来たのね」
「仕事だから」
「そうね」
 僕は彼女の向かいの席へと、座る。
「今日もやるんだね」
「ええ」
「どうして」
 彼女は少し迷ったように考えてから、言う。
「仕事だから」
「なるほど」
 僕は彼女が、徐に缶に巻かれたリボンを解くのを眺めている。彼女の一挙一動のあまりの美しさに、僕は息を飲まずにはいられない。そんな僕のことを、見透かしているかのように、彼女は僕の方をちらりと見てはいたずらに笑う。
「じゃあ、開けるよ」
「うん」
 彼女が蓋を開けると、缶の中から素早く無数の虫たちが飛び出していく。紙魚だ。彼女は夜の図書室で紙魚を放す。すぐに、紙魚たちは思い思いの方向へと進み、本を貪り始める。暫くの間、薄暗い図書室には、紙魚たちが本を齧る音だけが響き渡る。僕たちはその音に、ただ耳を澄ます。
「何故、ここで虫を放すんだい?」
 僕は言う。
「意味なんてものはいらないから」
 彼女は言う。
「どういうこと?」
「そのまんま」
 彼女は笑う。その笑顔を見ると、僕はもはや、何も言うことができなくなる。彼女が言うからにはそういうことで、それ以上でも以下でもないのだろう。僕はただ頷く。紙魚たちは本を貪り続ける。
「また明日も来るよ」
 僕は席を立つ。
「うん」
 彼女は言う。
 ドアを開け、僕は図書室を後にする。振り返るなど、野暮なことはしない。そこにもう、彼女がいないことはわかっている。紙魚なんてものも、存在はしていない。僕は再び、夜の校舎を一人で行く。わかっていても、明日もここに来てしまうのだろう。そう、仕事だから。僕の耳の奥では、紙魚がじりじりと本を貪るあの音だけが、いつまでも響き続けている。



Copyright © 2011 こるく / 編集: 短編