仮掲示板

第178期 作品感想


サイト自体には何度も足を運んでいましたが、今回初めて投票に参加したので、掲示板にも感想を書きに来ました。各々の見解があるので、決勝投票後にという思いで遅ればせながらの投稿になります。作者の方々にはあくまで一個人の感想ですので、ご容赦下さい。
自分なりに作品一つ一つと出来る限り向き合った感想です。


#1 リストカッターの少年
・出だしの文面や流れから感じた少年の心情の重さが、両親の泣かない理由が薄目に思えて軽減される印象。其れは少年の若さ故を表しているのならば、リストカットという自傷行為も含めての表現だろうか。途方に暮れはするが結局は家に戻っていく少年からは、序盤にあった重みが益々軽くなっていく感覚になる。
そんな中盤があった為、両親の泣き叫びにもあまり揺さぶられ難い。
出血の表現から意識を失う程のものだと感じていたのだが、机の上で目覚めた時の表現によってその見解も薄くなる。
序盤の幾つかの表現には良いものもあり、両親と少年との距離感や少年の葛藤感の表現が違えば作品に深みが出て来そう。光の階段は日の出の光にも思え、朝方の短い間の出来事を中盤で切り取ったのかなと受け取れたりもした。また、冒頭での雲の隙間から見えた光と終盤での雲が再び空を覆い光を失う表現は、少年の心を表しているようにも感じて、微妙な雲行きで終わっている事が味になっている。だからこそ 重と軽、どちらをより表現したかったのかを分かり辛く感じてしまう事が勿体無い印象。


#2 W.W.
・各々の感想でも分かるように、読者側の受け取りをより多様にする作品だと思う。併せて、読む側の消化具合も多様になる可能性の高い性質の作品だと思うので、読んだ方の詳しい感想を作者ではないけれども聞きたくなる。個人的には、一度目は文字通りに素直に読むと確かに迷い込むし、消化不良で終わってしまった。その為、この読み方は違うのだなと直感して二回目三回目に入り、別視点で幾つか考えた結果、自分なりに合点のいくものは見えた。解釈やテーマを探る事に重点を置いてしまい易い為、ストーリーやキャラの深みを見出し難い所が、この作品の評価や好みを分ける点だと感じる。ただ作者が読者に対して迷わせる事は狙いなのか、狙わずともそうなってしまったのかは分からないが、自分の受け取った題材の一つが正しければそうならざるを得ない部分はあるだろうと思う。解釈が合っているかは置いておいて、自分は二重人格、或いは多重人格を題材の一つにしていると感じた次第である。短編では比較的難しいと思われるものを多少の分かり辛さを交えながらも、核となるものを転がして纏め上げている。冒頭の『落としましたよ』から始まる自我の分裂の表現、最後の自分達を認めない者への潔い程の拒絶感がリアルな後味の悪さをするりと表現されている。
ただ、どこまでが誰という明確な答え合わせが出来ない所が個人的に未消化になってしまう点ではある。


#3 緊急事態と私
・女子高生の視点から語られる様々な言葉や文面からその子の性格などが断片的にも見えてき易く、意図的とも思える文章の奔放さが上手く共存しているなと感じた。個人的に良いなと思う表現も多く、単語の選択での印象的な主張や小気味良い文章のリズム感がやはり女子高生とマッチングしていて良いと思う。そんな下地がある事により、何回か読む程にこの作品としての味わいが増したように感じる。ただ、ストーリーとしては途中までは若き日の憂いや心の内などを感じられて魅力的だったのだが、担任が登場してからのくだりから段々と文章の奔放さが雑な方向に向かっていった印象。
空気の濃度が濃い辺りから、もしかしたら火事なのかとも考えたり、中盤の流れから担任がその亡くなった人だったりするのかなとか考えてみたが、確証を持つ云々の前に放り出された感覚。単純に読むとその推測は何にも関係ないかもしれないし、作者の意図してない事かもしれないが、その辺りに変なもやもや感が残り個人的には少し残念な部分である。


#4 性癖
・メモ書きという名の、男Aの自分自身の性癖を箇条書きを通して伝えているのかなと感じた。冒頭の二眼レフカメラの構え方から始まり、フィルムの現像の手順、プリントの手順の各箇所の細かな拘り自体が性癖だと取れる。またはそれぞれの手順を性行為の手順と照らし合わせたかったのだろうかとも過ぎったが、その点の細かい部分は詮索する気になれなかった為、分からない。ストーリー性や人物要素も薄く、個人的に読み込む要素が少なかった。


#5 ニンゲンという暮らし方
・タイトルと序盤の文面から、大体の話の流れは予想の付くものだった。大きな驚きは無いけれど、皮を脱ぐ辺りから来訪があって玄関へ向かう辺りまでは魅力的な世界観が広がっている。皮を存続させる為の『珠』の存在の描写の中でも、身体から取り出して瓶の底部で止まるまでの一連は、作品の世界への引き込み方がとても滑らかで心地好い。最後の締め方が個人的に物足りなかったのだが、それはきっと珠の力を貸りて生きている擬態での“私”ではなく、名前のない皮でのありのままの“私”に魅力を感じられたからだろう。皮を脱ぎ着する事が習慣の為、かなりのスピードなのだろうなとか。ソファーの上でコーヒーを飲みながら幸せを感じている描写の愛らしさとか。人間という生き物に対して訴える部分を前面に感じやすいが、同時に表向きの顔ではない本来の人間らしさの一部分も描かれていて、淡々とした世界観の中にも生身の温度を感じられた。


#6 本音誘発剤
・序盤戦であるエフ医師と少女の会話において、所々引っ掛かる言動があったので何かの伏線かと期待しながら読み進めたのだが、帰宅してからの描写と展開が粗雑な印象で終わってしまった。父親の裏の顔、母親の裏の顔を表現するエピソードが軽薄な急展開に思える。加えて少女の性格に特段の変化もなく終わってしまう為、本音を題材にした話だからこそのアンバランスな纏まり方になってしまっていると感じる。結局、個人的に気に掛かる箇所は回収されている表現も見受けられないので、そういった面でも粗がある印象。折角のアイディアである誘発剤も、効果や使い所などを工夫すればもっと魅力的なアイテムになるだろうし、三分の二を占めた医師と少女のやり取りを上手く活かす事も出来ただろうと思う。勿体無いなと思った作品の一つです。


#7 ガレのある料理店
・最初から最後までブレる事のない世界観を創り上げている事実が、読む側としてまず心地好い。ただ中盤以降で何処か文章が少しさ迷うような印象。松本のキャラや立ち位置が掴み切れないのは、作者の狙い通りなのだろうか。冒頭のシェフの台詞が話に引き込んでくれる良い役割をしていて、その後の女子高生との会話を交えたシェフと松本のやり取りにも効いている。店内やシェフの人肉についての説明等の描写が陰気さと生々しさをしつこ過ぎない程度に織り込まれており、自然と世界観に浸れた。少女の顔が披露された際の、シェフの指、蜘蛛の脚と続く辺りの表現は観音菩薩を表していたのだろうか。その事も含めて、顔を食す一連のくだり以降は少し分かり辛さの残るものが散らばっていて、その点が惜しく思えた。


#8 宴のアト
・読後に感じた事は、連載中の話の一コマのような印象を受けた。サスペンス的な要素を感じる単語や表現も感じたのだけれど、終盤に掛けてもとかく平和的に終えたのでそれは受け取り違いだったのだろうと思う事にする。家政婦的立場の人物からの視点に思えるが、カーテンの洗濯行動一連を見ていると仕事としてやっている感じではないように思えたので、世話焼き的存在なのかなと判断した。全体を通して和やかな印象を与える作品であり、実際には出て来ないカズキさん始め年下の彼らである人達が作品の所々に散りばめられていて、魅力的に描かれている。カーテンの汚れがキーポイントっぽく思えるが、如何せん何の汚れだったのかが作品内では回収されていないので、個人的にその点が消化不良。


#9 1992年の伊勢丹ロックウェル
・自分の中に棲む別の自分を“カエル”に置き換えて表現したのかなと感じた。駄洒落を主軸に遊びたいフレーズを入れ込み創っているが、盛り込むフレーズの量と遊ぶ技量が伴っていない印象。そちら重視に思える創りなので、そちらを楽しもうにもどうにも駄洒落の具合が個人的に馴染まず、両手を上げて笑えるでもなく寒いと率直に言えるでもない微妙な洒落を聞かされている感覚に陥った。最終のくだりを持ってきたいが為に創られたように感じるので、ストーリー的に突っ込むのは野暮なのだろう。ただそれは洒落にインパクトや技巧を感じられてこそ許容出来るものであると個人的には思うので、何度読んでも心が蛻の殻状態になってしまう。個人としては、折角のカエルの存在をもっと重点的に扱い、洒落も適度に減らしたストーリー性あるものの方がこの世界観を広げられたように感じる。


#10 幽霊と映画と手帳
・素直に文章通りに読むと随分とあっさりした読後感になり、手帳の辺り一連で何か引っ掛かる箇所が幾つか出て来る。その為、これは幽霊を幽霊だと捉え切れないなと感じ、ふと自分が直感的に考えた風に読んでみるとがらりと印象が変わった。作者が意図していない事かもしれないが、幽霊と作者自身がダブる感覚になったのだ。全体的なストーリーとしてもきちんと纏めてあるが、映画のくだり辺りから話の世界の中から読後である自分が浮遊していくような感覚に陥る。そして手帳のくだりを読んでいくと、話の中の“幽霊”と手帳を忘れていったであろう“高校生”の関係性が、“作者”と“読者”である自分と一致してしまうのだ。そうすると、違和感を感じていた終盤の文章に合点がいく。『もし手帳を開いたあなたにこの文章が読めたとしたら』の一節。ここで“あなた”と記した事によって、高校生に宛てたものから読者に宛てたものへとからりと変貌するのだ。そしてその後の文章を読むと、作者自身が読者に向かって話しかけているように感じる。だからこそ『付属のペンで「こんにちは」と試しに書いてみました』なのかなと。その一言により引き寄せられるように冒頭に戻され、はっとする。まるで作者がこのお話自体を手帳に記して読者へ向けて描いてるように思えたのだ。その一連を辿った後、今一度目に付いたタイトルが訴え掛けるように熱を持つ。幽霊でも映画でも手帳でも、その通じ合える瞬間や時間こそが大切だと訴え掛けられているように感じた。加えて作者から読者へ、この作品を通じて同じ時間を共有出来ましたか?という問い掛けを感じたので、この感想が返事になっていたらと勝手ながらに思う。最後の一文の言い回しが少し勿体無く感じるが、とても読後の余韻を味わえる作品だった。タイトルと掛け合わせて全体で表現していると思った理由は以上である。裏タイトル『あなたとわたし』でも良さそうと思える位の纏め方。有意義な時間を貰い、見当違いやもしれないけれど、作者と繋がれるような心地にして貰える素敵な作品だと思う。


第179期の感想

「私の存在」
 主人公よりも年下(走り回る、から子供を連想した)な、かといって人間らしさのない(人で言うと座った姿勢とは、人でない場合に使う言葉ではないのか)生命、といったものを想像させる。○○ポルノのような、一種の不幸を押し付けるといった感慨もある。
 主人公と彼の年齢や関係性が明確になっていないので、主人公の独りよがりが浮き立ってしまう。タイトル「私の存在」も私を中心とした言い方であるし、彼という他人を用いながらも自我を強く主張している小説として読める。だとしたら、最後の一文「彼は観ていただろう。」のように彼の視点(そもそも、帰っていく私[私の背中]を観ている彼を、私の視点からは観ることはできないが)をあえて入れるのには違和感が残った。主人公目線での最後というものが必要であったのではないのであろうか。その方が自我をより強調できたように思う。

「蝉の声」
 家族とは何であろう。子供とは何であろう。血のつながりがないことは家族になれない条件なのであろうか。子供になれない条件なのであろうか。
 例えばこれが、まったく血縁関係のない、友人の子供、孫(もしくは公園で見かけた子供でもいい)などであったら、そんな感情をいだいたのであろうか。素直に「大きくなった」ことを喜ぶのではないのであろうか。だとすると、養子ということが不幸を感じる要因にはならないと思うのである。遺伝子を残す上での不満(手足の形が似ているとか、父と子の寝相が似ているとか生活の節々で感じとれる幸せはないはずであるから)はあるかも知れないが、作者はそれを「何の問題もなく、ごくごく平凡な時間」として片付けてしまっている。
 主人公はなぜ子供を持てないことを嫌だと思ったのであろうか。また、そのことに対して妻がなぜ(例えば痛みではなく)悲しみを抱いたと感じたのであろうか。親は決意を持って養子をとることができる。しかし、子供は決意すら持てないまま養子になるのである。文字数に余裕があるのでそこらへんを書いても良かったのではないのであろうか。

「世界人類に平和が訪れるなら。」
 「LOVEさえなければPEACE」とタモリが過去に言った。
 誰に対して何を言いたいのかが分からないから、愚痴どまりな内容に読みとれてしまう。まぁ、十代の意味を持たない葛藤(感情が先走ってしまい整理して伝えられないといった感覚)を書いたと捉えられなくもないが、私はそこまで容認できなかった。これは、スクールカーストやアイデンティティーといった言葉が作者の内面を反映しているように読めるからで、小説という形になる前の作者の心の葛藤のようでもある。言いたいことはあるが、言わないよ、という僕がもし、日本に生まれていなかったなら。果たして同じことが言えたのであろうか。もっと別な世界が見えたのではないのであろうか。そんなことを考えてしまった。
 吐き出されきっていない作品の典型のようであり、とにかく吐き出した先にある作品にいってほしいと思う作品である。

「パパ」
 七歳差でパパという感覚にズレを感じている。私の年齢のせいなのか。
 顔面が蒼白(目視できる状態)になるまでには、死後、三十分以上かかる。だったら、死後、三十分以降から一時間くらいの出来事であるかなと推察した。死後、一時間で体温は0.5度から1度低下するそうである。その体温差でパパを冷たいと感じられるのであろうかとの疑問は残る。ここで考えを変える。誕生日の回想シーンで数時間(数時間は温もりがあるらしい)が経過していたら、冷たいということもあり得るかと。そうだとしても、よくある理由で殺されているから、殺されたということがセンセーショナルになっていない。センセーショナルさがないことが作品を平凡に見せていることに変わりはない。
 どうも無性の愛が引っかかって調べた。誕生日の会話は贈与の関係(パパになるということに対する見返りがお互いに存在する)であるから、その時点で無性の愛は存在しなくなっている。また、その後の「漸く手に入る」という言葉も、無性の愛自体、ようやく手に入れるものではないと考えられることから、無性の愛というものは最初から存在していないということが言える。
 本当は、殺しても尚、愛するという精神面を書きたかったのではないのであろうか。惨殺だけで終わってしまったことが残念な作品である。

「夢?」
 夢おちではない小説。前半は面白いと思った。
 私が疑問で終わる意味が活かされていないと考えたのは、結を持たせない疑問が読者の感情を分散させてしまっているからである。夢を言葉にするほど、つまらないものはなく、だからこそ、その夢を読者に印象づけさせるためには、所謂「起承転結」が必要であろう。しかし、この小説は疑問という形で結から逃げている。夢おちというラインまで届いてはいない。そのことが、先に書いた読者の感情の分散につながると考えた。
 雨の降っていない世界から雨の降っている世界の自分の背中を見ているとすると、次元にまつわるようであるし、季節感を考えると幽体離脱とも捉えられるし、単に夢の中で夢の中の自分の背中を見ているとも捉えられる。自分を後ろから見ることを作者はどう捉えていたのであろうか。作者はきっと、そこに重要なものを見出だしたのであろう。だったら、そこを作者なりに提示する必要はあったであろう。
 

「四郎」
 教訓を書かないことを目標にしました。ただ単に不幸だけが訪れるというような。そこから何かを得られればなんてことは。

「訪問」▲
 小さな教訓というのであろうか。静かで淡々と時の流れる、そんな時間を過ごさせてもらった。相対的には評価してもいい作品である。怪談じみたものをはじめ想像させたが、結局は大人になると忘れてしまう感覚を書いただけに読め、これぞ、という決まり手に欠けた印象が残った。それが絶対的評価にならない理由である。

「誰も話さなくなった日の終わり」
 最後の一言がすべてを語る。
 「作者の書きたかったことって何」と読者は思うのである。
 マフラーの所在や靴の湿り気など、問いかけはあるが、答えがないので投げやりな印象だけが残ってしまう。
 他の作品でもそうであるが、文字数の少ない小説は内向きな感情に潜り込もうとする傾向が見える。これは吐き出されていないということであり、そういった感情ともとれない感覚(誰が誰に対して言っているのか分からない書き方に加え、最後に君という不明な存在を出されると、結局、何が書きたかったのかが分からなくなる)はとにかく早く吐き出してしまって、その先にある作品を書いてほしいと願う。タイトルはインパクトがあったが、季節感は少し考えたほうがいいとも思った。

「虫のこと」●
 やはり、読者への歩み寄りが少ないと思う作品である。ただ、書きたいことは何となく伝わるし、構成よりも感情が先走ってしまうという感覚も分かるから、本当に、歩み寄りがあればなぁと、毎回考える。でも良かった。
 勝手にMUをMUSHI(虫=無視)のMU(またはMUSEIのMU)と捉えた。MUには場を読めない特性というものがあるらしい。分け隔てのない彼女が会社にこなくなった理由が何度か読むうちに理解できてきた。ただ、下半身の汚れ(夢精なのか。ヒアリの夢からの夢精というより、自殺した美人からの夢精を強く感じはするが)の理由は分からない。もし、夢精だとすると性に対する幼児性のあらわれなのか、それとも、彼女への思いなのか。
 彼女の自殺の原因が少なからずMUにある(彼女を手伝わなかったMUへの給茶室の奥からの視線からそう思う)とまわりは思っているらしい。その毒を単純に特性と捉えてしまっていいのかを考えた。ただ、十年勤務しているということはMUの生き方はこれでいいのだとも言える。仕事を手伝うことに対してMUは至極真っ当な対応をしている。不条理な断りではない。MUの中でひとつの法則のようなものがあって、それに沿った対応であれば、MUは断らないし、単なる、空気読めよ、みたいな対応であれば、それは、MUの対応外となる。察すれよ、という気配のようなものが作品全体を包み込んでいて、すごく、やりきれない感覚が残る作品であった。

「家族」
 これは何かの展開につながるのか、はたまた、前回とはまったく関係のないはなしなのか。とにかく面くらってしまった。もはや、単体で見ることはできなくなったので、評価は控える。

「リリーはキツネのリュックになる」▲
 言葉のインパクトだけが残る作品。コンテクストに通ずるかは分からないが、言葉を調べてみた。
 「ルドン」ルドンという画家は知っているが、今調べた限り、手足のついた目玉に該当する絵は見つけられなかった。よって、鬼太郎のおやじと見るのが妥当なのであろうか。
 「ブサイクなキリスト」まず思い浮かぶのは、おばあさんの描いたスペインのキリスト壁画。皿の上の花が絵の一部なのか、絵の前に置かれた実際の花なのかは、この小説からは読み取れないが、スペインのキリスト壁画には花は描かれていない。
 「キツネのリュック」フェールラーベンのカンケンバッグにはキツネのロゴが入っている。この場合、狐がリュックになったということではなくて、本当のバッグという意味合いの方が強いのであろうか。(他の言葉についての見解は得られなかった)
 そうか、目のないリリーさんと、目だけの目玉の登場。妖怪的な内容。これは「ゲゲゲの鬼太郎」を言っているのか。そう考えると何か寂しい。

「冷蔵庫の物語」●
 生まれが月並みでない以上、冷蔵庫で終わろうが、別の何かで終わろうが月並みではなくなる。「月並み」という言葉が結局、作者の心情を吐露しているように思うのは、前作の戒めでもあると私には感じるからである。
 少し前、冷蔵庫から出てくるドッキリがテレビであった。
 手紙のやりとりや、別世界の妹が家電売場で冷蔵庫を担当しているのは滑稽であるが、独り暮らしの妹が家電量販店で働いていて、たまにメールをくれると捉えれば、それはごく当たり前の生活のようでもある。兄が妹の存在を認めれば、兄の葛藤はなくなるであろう。葛藤が消えれば小説とも捉えられなくなってしまう。このズレはとてつもないパワーをはらんでいる。それと、この作品には、ものすごくエロティシズムを感じる。「お兄ちゃん」ではなく「あにき」でもなく「兄さん」なのである。「兄さん」は年齢や性格を顕著にあらわしている言葉であるが、どことなくよそよそしい響きもある。そのよそよそしさに私はエロティシズムを感じた。
 また、最近の傾向なのか「好き」という言葉が気にかかった。そこで飛躍する。宇宙人と言い当てた彼女に対してようやく「好き」と言えたのではないのか、と。掲示板の感想にあった「作者と読者の関係性」という解釈は案外的を射てるのかも知れない。物語をフィルターにした作者の内面の描写なのではないのだろうか。
 ひとつ疑問が残るのは「はじめから私の気持ちを知っていたなんて嘘だ」の解釈がいまいちできなかったことである。はじめから知っていたという妹の言葉をそこまで否定する兄の気持ちが分からなかった。作者の返答を待ちたい。

「アニマ」▲
 作者固有の湿気のこもった作品。前作、前々作を見ていて、この湿気は身体的な苦痛や欠損によるものであるとの認識を強くさせられた。今までの作品すべてにそういった傾向は見受けられるが、少しずつではあるが、吐き出されてきており、いい意味で中和しているとも感じる作品であった。
 具体的な「何」に対しての展開かは不明であるが、言いたいことを認識させられるのは、ハイコンテクストだからなのであろうか。イメージや印象的なセンテンスが先走ってしまい、座りの悪い後味であ。猫に連れられた盲目の男。私とは誰なのであろうか。

178期 感想の感想(追加)

【第178期 作品感想/三倉 夕季さん】

#10 幽霊と映画と手帳
・素直に文章通りに読むと随分とあっさりした読後感になり、手帳の辺り一連で何か引っ掛かる箇所が幾つか出て来る。その為、これは幽霊を幽霊だと捉え切れないなと感じ、ふと自分が直感的に考えた風に読んでみるとがらりと印象が変わった。作者が意図していない事かもしれないが、幽霊と作者自身がダブる感覚になったのだ。全体的なストーリーとしてもきちんと纏めてあるが、映画のくだり辺りから話の世界の中から読後である自分が浮遊していくような感覚に陥る。そして手帳のくだりを読んでいくと、話の中の“幽霊”と手帳を忘れていったであろう“高校生”の関係性が、“作者”と“読者”である自分と一致してしまうのだ。そうすると、違和感を感じていた終盤の文章に合点がいく。『もし手帳を開いたあなたにこの文章が読めたとしたら』の一節。ここで“あなた”と記した事によって、高校生に宛てたものから読者に宛てたものへとからりと変貌するのだ。そしてその後の文章を読むと、作者自身が読者に向かって話しかけているように感じる。だからこそ『付属のペンで「こんにちは」と試しに書いてみました』なのかなと。その一言により引き寄せられるように冒頭に戻され、はっとする。まるで作者がこのお話自体を手帳に記して読者へ向けて描いてるように思えたのだ。その一連を辿った後、今一度目に付いたタイトルが訴え掛けるように熱を持つ。幽霊でも映画でも手帳でも、その通じ合える瞬間や時間こそが大切だと訴え掛けられているように感じた。加えて作者から読者へ、この作品を通じて同じ時間を共有出来ましたか?という問い掛けを感じたので、この感想が返事になっていたらと勝手ながらに思う。最後の一文の言い回しが少し勿体無く感じるが、とても読後の余韻を味わえる作品だった。タイトルと掛け合わせて全体で表現していると思った理由は以上である。裏タイトル『あなたとわたし』でも良さそうと思える位の纏め方。有意義な時間を貰い、見当違いやもしれないけれど、作者と繋がれるような心地にして貰える素敵な作品だと思う。

⇒この作品に出てくる幽霊というのは、「孤独」を象徴している存在であり、この作品はその孤独の中でのもがきや葛藤が、手帳に記された文章として記録されているという作りになっていると思います。人間は、基本的には孤独な存在で(そうじゃない可能性もありますが)、放っておくとこの作品に出てくる幽霊のように世界から隔絶されたような状態に陥ってしまう気がしますし、実際にそういう人も多いのかもしれません。庭の手入れを放っておくと雑草が生え放題になったり、物を捨てられないとゴミ屋敷になったりするのと似てて、人間はコミュニケーションや人間関係の維持を怠ると孤独に陥ってしまうんじゃないかと思います。しかしそのような状態に陥ってもなお、誰かと通じ合いたい気持ちをどこかに持っているのもまた人間であり、そのひそかな気持ちこそ孤独に対する救いがあるんじゃないかという気がします。
 私自身、なぜ小説なんかを書いているのかというと、「もし手帳を開いたあなたにこの文章が読めたとしたら(もし通じ合うことができたら)」という、幽霊が抱いている希望や救いと同じような気持ちがあるからだと思うので、作者から読者へのメッセージになっているという指摘は、きっとそうなのだと思います。そして、1000文字の文章を読む2、3分の間だけでも時間が共有できたとしたら、それは作者にとっても、そしておそらく読者にとっても幸せなことでしょう。

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